
ポップスの枠にとどまらない構成美
Mrs. GREEN APPLEの音楽は一聴すると王道のJ-POPに思えるが、構成の緻密さと“聴かせ方”の設計において際立っている。
『僕のこと』はその代表例だ。Aメロから徐々に高揚し、サビは2段構成で展開する。1回目のサビは抑えめに、そして2回目で限界域の高音(G5)に到達する。その“温度差”が、聴き手の感情を自然と引き上げる。
さらに、間奏やサビ前に挟まれる**静寂(ブレイク)**が、言葉ではなく“呼吸”で語りかけてくる。この緩急と密度の使い分けが、ミセスの音楽を“感情のドラマ”へと昇華させている。
サウンドに仕掛けられた“必然のスパイス”
Mrs. GREEN APPLEの楽曲が単調に聴こえないのは、音の選び方に緻密な仕掛けがあるからだ。
王道のポップス構造を軸にしながら、彼らはコード進行に**ほんの少しだけ“意外な響き”**を混ぜ込む。たとえば『青と夏』では、サビで登場するサブドミナントマイナーのコードが、どこか切なさを帯びた情緒を生んでいる。
こうした一瞬の“ズレ”は、曲全体に強いエモーションを与えながらも、不自然に聴こえないよう丁寧に配置されている。まるで、整った風景の中にひとつだけ揺れる葉を置くような、さりげない違和感が、心の奥に残る。
それは偶然ではなく、感情のグラデーションを描くための設計として組み込まれている。Mrs. GREEN APPLEのサウンドは、ただ“美しい”のではなく、聴く人の中に静かに波紋を広げていくような深さを持っている。
歌詞に宿る「共感」と「祈り」
Mrs. GREEN APPLEの音楽には、聴き手の心に静かに触れる「言葉の余白」がある。
誰かを励ますための言葉ではなく、“誰かのなかにある言葉にならない想い”を、そっと代弁してくれる。
「ああ なんて素敵な日だ
幸せに悩める今日も
ボロボロになれている今日も
ああ 息をして足宛いている
全て僕のこと」
(『僕のこと』より)
悩み、もがき、傷つきながらも生きているという“存在そのもの”を、ちゃんと祝福するような言葉だ。
「誰しも何処かに
弱さがある様に
無駄がない程に
我らは尊い。」
(『Soranji』より)
悲しみのなかにいる人を無理に立たせるのではなく、「あなたはそのままでいい」と語りかけるような優しさが、Soranjiには宿っている。
「私を愛せるのは私だけ。生まれ変わるならまた私だね」
(『ケセラセラ』より)
過去も傷もひっくるめた自分に、ちゃんと「よく生きてるね」と言ってあげられる強さ。
それはMrs. GREEN APPLEが“青春”や“愛”だけでなく、人が生きるということ全体を歌ってきた証だ。
終わりに──未完成なまま美しいもの
Mrs. GREEN APPLEの音楽は、完成された正解を提示しない。
未完成なまま、それでもいいと、リスナーに語りかける。
だからこそ私たちは、彼らの音楽に**“自分自身の物語”を重ねることができる**のだ。
日常の一歩、迷いながらの選択、立ち止まりそうになる夜。
そんな場面で、そっと背中を押すように、あるいはただ隣で歩いてくれるように──
Mrs. GREEN APPLEは、音楽を通して“祈り”のようなものを、今日も届け続けている。