
すべてが演出され尽くしたように見えるポップの世界に、ときおり“未定義の美学”が差し込まれる。
BTSのJ‑Hopeが放った『Killin’ It Girl』は、まさにその瞬間だった。
米ラッパーGloRillaとの共演は、K-POPと南部HIP-HOPという文化の重なり以上に、“女性”という存在の表象そのものを問い直す構造を持っている。
視線、距離、ラップ──そこに宿るのは、語りすぎない“強さ”だった。
“Killin’ It Girl”──破壊と肯定が同居する言葉
このタイトルがまず問いかけてくるのは、「誰が、何を、“Killin’ It”しているのか?」ということだ。
J‑Hopeのラップとダンスは、なめらかさと緊張感を行き来しながら、観察者でありながらも物語をリードする。
GloRillaは、自身のラップパートで鋭く切り込むように登場し、“It Girl”という言葉の中にある固定的なジェンダー観を解体する。
ここにある“Killin’ It”は、他者からの評価をまとわない「自己決定の在り方」そのものに聴こえる。
距離で描く関係性──視線と余白の美学
MVでは、親密さを“触れ合い”で描かない。
代わりに、目線と間合いが緊張を生む。
誰かの物語にされることなく、互いに“在る”ことを前提とした視線がそこにはある。
その距離は、冷たさではない。むしろ、語られすぎないからこそ伝わる感情がそこに残されている。
この余白の演出は、ポップミュージックがこれまで抱えてきた「フェミニンの描写」に、
新しい輪郭を与えているようにも見える。
寄り添いすぎず、突き放しすぎず、ただ“共にいる”ことで生まれる関係性──それを音楽で描こうとするMVの構造は、静かに力強い。
声が画面を越えるとき──共演から共振へ
GloRillaはMV中盤に登場し、J‑Hopeと“並び立つ”構図をつくる。
その瞬間、MVは単なる“コラボレーション”から、“共振”の空間へと移行する。
彼女の低音のフロウとまっすぐな目線は、画面の重力を変える。
ここで語られるのは、“主語”としての彼女自身だ。
語られる存在ではなく、語る存在としてのフェミニン。
その瞬間、J‑Hopeは物語の中心から半歩引き、空間のホストになる。
二人が向き合うというよりも、“同じ側に立っている”と感じさせるこの構図は、
ポップがいま鳴らすべき関係性の輪郭を、そっと描き出している。