
定着済みの語彙を、あえて使うという選択
“Zombie”という語は、長年にわたってポピュラーミュージックや映像文化の中で比喩的に使用されてきた。感情を失った人間像、あるいは支配された群衆としての象徴。
YUNGBLUDが2024年に発表した同名の楽曲においても、同語は決して新しいコンセプトとして導入されているわけではない。むしろその逆である。比喩としての鮮度が薄れた語彙を再び表面化させることで、楽曲はある種の**“無表情さ”を帯びる表現装置としての強度**を獲得している。
本作において「ゾンビ」とは、恐怖や狂気の対象ではなく、反応を持たない生の姿として再提示されている。その意味で本作は、プロテストロックの構造を借用しつつ、過去的な情熱や煽動性とは異なる温度域に身を置いている。
抑制された構造、抑制された感情
『Zombie』の構造はきわめて直線的である。イントロからアウトロまで、展開らしい展開は与えられず、主要なコード進行は反復的に維持される。ギターの歪みは粗く、むしろ意図的に**“未加工”の荒さ**が残されている印象すらある。
ドラムはタイトに刻まれながらも、アクセントは極力抑制され、変化は少ない。ヴォーカルもまた、明確なエモーションの波を持たない。叫びも泣きもせず、ただ投げかけられるように言葉が発音される。これらすべての要素が合わさることで、楽曲全体には意図的な平坦さ=無機的な推進力が生まれている。
結果として、この曲は従来のYUNGBLUD作品に見られたエモーショナルなカタルシスを持たない。その空白が、逆説的にリスナーの内部で“何か”を起動させる構造を担っている。
映像表現と“演出されない絶望”
ミュージックビデオにおいても、この「感情の非演出」は徹底されている。瓦礫の中を歩く無表情な群衆。赤いライトの点滅、崩壊した構造物、金網越しの視線。だが、そこに悲嘆も叫びもない。ただ“過ぎていく”動作だけが存在している。
映像は社会的なモチーフを含んでいるようでいて、明確な政治性やメッセージは提示されない。むしろ、プロテストそのものが“空洞化”した現代性が、空間の不在感として表象されている。
この演出方針は、楽曲における“表現しないことで表現する”という設計と一致しており、全体として一種の寡黙な批評性を担保している。
構造化された空洞としての音楽
YUNGBLUDの『Zombie』は、怒りや苦しみを露出する作品ではない。むしろそれらが表出できなくなった時代のなかで、何を鳴らし得るか──という問いに対する一つの応答である。
全編を覆う平坦さ、制御された音響、非演出的映像。
それらは、感情の不在ではなく、感情の封印という形式をとって語られるべきものだ。
“Zombie”という語を通じて本作が描いているのは、
死でも生でもなく、そのあいだに留まる意思なき歩行に近い。
楽曲は最後まで声を荒らげることなく終わる。
その静けさが、今日のロックにおいては、最も大きな音として響いている。